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ジー・・・と手の中で蝉の羽音がする。巻き戻し。真四角の黒い蝉の横腹にある、三角の再生ボタンを押した。
指先の徒労。頭の上に放ったスマートフォン。電話はかけられない。つながらないから。
電波もとどかないところ。きみは今、金星にいる。
地表500℃の星。
愛というにはいささか苛烈。

 

そこでもきみは、まるごと抱きしめたいの、とうたっているのだろうか。

 

真緑色した平べったいドーナツに、ずんぐり生えた4本足の椅子に腰にかけて、親指でスイッチ。
「とれてる?」という声にうなずく。「なにからお話しよう?」というといかけには、
曖昧に笑って好きにしてよと腕を広げた。
ええと、と、お決まりのメロディ。お決まりの仕草。
人差し指をゆるく曲げて、そっとあごに手をやるその爪先。ネイルもベースカラーのマニキュアもない。
Uの字にカーブした爪が、やわくあごをなでる。つまようじの先分、困っている。
インタビューには、私達の職業柄ずいぶんと慣れているはずなのに。
「お話しよう?」という声には、首をふった。
言葉がつづかないことに、小さじ一杯分うぬぼれて笑いながら、
髪からのぞくふくりとした耳のふちに向けてささやく。
これからの話は、きらりの話だから。ふちから、とふりと鼓膜を揺らすことには、たぶん成功したんだろう。
水に溶かした可視光の形に、唇の形をととのえたのが証拠。
-ツアーが決まって、どうですか。
第一の質問。ぱん、とポップコーンが弾けるみたいに、唇がひらく。
要約すれば、うれしいと、たのしみと、期待と、スプーン一杯分の不安と。
きらりの中でふわふわと浮かんで、くるくるらせん状に回る気持ちが、言葉になっていく。
ひとつひとつに丁寧にうなずいて、時々にきっかけだとか、縁だとか、転機だとかを訊ねて、
ほろほろとこぼれる言葉を一つの線でつないでエピソードにしてゆく。
ことの起こり。その準備。歌いたいこと。踊りたいステップ。見せたい光景。見たい景色。
諸星きらりが太陽系を巡るツアーへ出発するひと月前。

最後の単独インタビュー。

 

かちん。と、蝉のからだの中でバネが跳ねる。

 

そろりと瞼を開けると、
遮光カーテンの下の端でゆらゆらと日の光がフローリングを白く焼いている。
朝だ。ずいぶんぬるくなった手の中の蝉は触れている所がしっとりと汗ばんでいる。
強張った筋肉をじわじわと開きながら、手の中に抱えていたテープレコーダーを放す。
小指からしびれがじりじりと広がっていく。
にぶい動きでのろりと曲げて、その内に指がばねのようになりそうなので左手でおしつぶす。
ピントのあわない視界。眉間を指で押し込むと気休め程度に血の流れがよくなる。
起き抜けの半透明のもやが静かになくなっていく。
指の腹と頬がこすれる音を聞きながら起き上がって、ベッドのふちに座るように足を出した。
生白い膝に肘をつけて、重たい瞼を開けたり閉めたりしながら、
点々とフローリングに落ちている青白いビニール袋たちをつなげてでたらめな船の星座をつくる。
まるで折り紙でつくったやわな小舟。星の海に浮かべたら、どうなるだろうか。
すぱりと小舟が規則的な振動音に切られた。振動の元をつまみあげて耳に押しつける。
もしもし、と応答すれば、150ヘルツの音が耳の奥をたゆませる。
お休みの所、と切り出された話は体調不良で急遽休んだ同じ事務所のタレントさんのピンチヒッター。
二回とか、三回くらいしか顔を合わせたことがない。
どうでしょうか、と伺う音の端は低いだけじゃなく重い。
つられるように瞼を下げながら、何時から?と聞けば、13時入り。
ゆらゆらベッドから立ち上がって、焼けるフローリングにつま先をのせれば真昼の温度がそこにはあった。
カーテンの端をつまんで数㎝開けば、太陽があんなにも高い。
じわじわと紫外線にあてられた肌がひりひりと痛むまえに、
しょうがないなぁ、と空に向けて放った音は、窓ガラスにたどり着く前に消える。
顔を洗って、服を着替える。
鏡の中の姿はベッドの中にいた時とあまり変わらない。
間違い探しぐらいの差だ。
髪に手ぐしをかけて縛った。Tシャツの端が伸びてない。瞼がさっきより2ミリ上がってる。
指で頬を挟んでひっぱりあげた。口角があがった。指を放しても32度の角度は変わらない。
そのままにしてクマの容器にはいった日焼け止めをぺたぺたと塗りたくり、
スマホと財布をトートバッグの中に投げてピンクのうさぎの耳をつかむ。
ばらばらに脱ぎ捨てられて褪せた黄色のクロックス目がけ、右、左とステップを踏み、
ステッキ代わりの白い日傘を掴む。
ぎ、と蝶番が声を上げると、むっとした湿度をとらえた肌が汗を促す。
廊下にできた薄色の上を歩き、灰色の箱で外へ降りて、早々にタクシーを捕まえた。
行き先を告げて走り出すと、エンジンに合わせるようにエアコンも唸り出す。
四角いフレームの中の街をおざなりに見つめていれば、バックミラーに声が反射する。

 

「双葉杏さんですよね。アイドルの」

 

ふあ、という、遠慮無い杏のあくびは目の前の彼女だけでなく、
周りのスタッフさんの笑いにも一役買ったらしい。
あんなにぐっすりだったのに、まだ眠いの。
と言うような視線や表情の中でただ一人、プロデューサーの表情は重々しい。
急でも突然でもオファーを了承したのは杏なのだから、そう気にすることでもないだろうに。
うさぎの耳の間にあごを置きながら、もう一度出そうなあくびをかみ殺して、適当に報酬を要求する。
サイダーのみたい、と言うなり、数メートル先の自販機が10カウント後にはオーダー通りのものを吐き出す。
そのまた10カウント後には、半ばまで白い蓋が開けられたサイダーが目の前にお膳立てされた。
ありがと、と一言発して口をつければ、
無色透明の中の香料と甘味料が気泡と一緒に口の中で弾けながら喉を降りていく。
100ml当たり42kcalのエネルギーに、胃がゆるく反応するのを抱えたうさぎの背中で覆った。
日中の温度が下がり始めた15時。13時入り予定だったスタジオの中では今急ピッチで作業が進んでいる。
理由は機材トラブルだ。原因は一時保管していた部屋のエアコンが壊れたことによる湿度と熱。
誰が悪い訳でもない理由なのだから、プロデューサーただ一人が重い顔をしなくてもいいだろう。
ペットボトルの蓋を緩く閉めて、うさぎの耳の間をすり潰しながら瞼を閉じる。

 

「まだ眠い?」

 

頭の上の声に、YESともNOともつかない返事をしながら、
テーブルがペットボトルの底でことりと一度叩かれた音を聞く。
生真面目な彼女の中で返事はYESになったらしい。準備できたら起こすね、とそれきりだ。
だから遠慮無く瞼を閉じた。でも微睡みらしいものはやってこないと知っている。
耳は律儀に壁掛け時計の秒針がばね仕掛けで動く音を聞いていて、そこに時々混じる人の息だとか、
手帳の背表紙とテーブルがふれ合う音の違いを逐一伝えてくる。
慢性的なエネルギー不足の割に各器官は役割を果たしていて、
意識下でコントロールなんて利かないと過去の先人がとっくの昔に気づいたことを思う。
左足と右足の表面に風が一定の間隔で流れてゆく。ここは随分と冷房が効いている。
テーブルの下でひたりと足を組む。触れあったとこは既に冷えていて、肌の質感だけを互いに主張しあう。
はた、と紙の上に軽い音を立ててインディゴブルーのペンが落ちた。
プレゼントなの、と揺れる亜麻色の髪と一緒に跳ねた声の色は何色だったか。
記憶は無数の靴音に紛れて土の中に埋もれた。

 

「お待たせしました!新田さん、双葉さん、お願いします」

 

模範的な返事は美波にすべて任せて、ただ、瞼を開けることに注力をする。

手のひら一つ半の大きさの画面に収めた写真を並べたら、どれくらいの面積になるだろうか。
写真整理なんて最初から選択肢にはないけれど、ふとそんな事を思う。
テレビだとか動画の中の登場人物達の日常の隙間は、
片手の中の機械で誰もが喋って動く姿をアップロードできるようになっても、需要があるらしい。
番組の企画内で紹介できるレベルの、なんでもない写真をプロデューサー宛に送り終えて、
人差し指で機内モードへスライドさせる。画面にライトベージュの粒子の線がひかれる。
肌に乗せられたばかりのファンデーションだ。手のひらで拭ってから鞄の中に放り込む。
パイプ椅子から立って、暗いスタジオの真ん中に組み上げられた、ビビッドカラーのセットの中へ歩く。
ランダムに選ばれた観覧席からの拍手。暗がりの中で蛍光ピンクがいくつも点いていくのを見ながら、
真昼のような照明の下で口角を32度に押し上げる。そのままの角度で口を開けた。
そして何度も唱え続けた言葉を、目の前の彼らと、カメラの向こう側の彼らと。
体中の、はたらかない、すべてのものへ。

 

「お疲れさま」

 

と、背後から青白いスポーツドリンクを差し出してきたのは美波だった。
メイクを落としたての顔に、化粧水で水浸しになったコットンをぺたりと頬に貼り付けて受け取る。
濡れた手で開くだろうかという一瞬の思考も即座に解決した。
プロデューサーといい、彼女といい、無償のお膳立てをするのが苦にならないらしい。
100mlあたり25kcalのエネルギーを、収録前のサイダーと同じに一口飲んで胃に入れる。
ありがと、とお礼を述べてペットボトルの蓋を閉めて、残った頬の面積に化粧水を塗っていく。
コットンをゴミ箱に投げ、10円玉大、手のひらに出した乳液で顔を覆い終わるまで待ってから彼女は口を開く。

ね、杏ちゃん。このあとご飯でもどうかな。
イタリアンがいいか、フレンチがいいか、中華がいいか、和食がいいか。
一つ一つ丁寧に区切って提案する唇の色はマゼンタで、形は三日月。
触れはしないけど温度はきっと人肌で。中身を形容するのであれば、優しさになるんだろう。
だから形式に沿って眉間に皺を小さく寄せた。怠惰とか横着さからくるものでなく。
夏で食欲ないんだ。家でそうめんとか適当に食べるよ。また今度。
その機会があれば。短く伝えた文章は滞りなく一つの会話を終了させる。
二つ目を始めるにはきっかけが必要だった。
生憎とこちらの手は小さく、そうたくさんのボールは持ち合わせていない。
そっか、と律儀に相づちが打たれたらそれが最後。

 

「かな子ちゃんからね。預かってきたの」

 

これ、と渡されたピンクの包み。ティラミスだって、と端的に補足を加えた彼女の唇は変わらず三日月の形だ。
ボールを持っていても、投げる体力も気も無かった癖にと、シニカルに笑ってくれてよかったのに。
そうしないのは彼女の性質で、本当の目的はこちらだったからで。
労いを苦にもしない彼女たちの、月に三度の「大丈夫?」に「大丈夫」と、くりかえし繰り返し。返事する。

 

 

-ツアーの見所は。

第三の質問。基本中の基本。
ありきたりと言われてもなお人を変えツアーを変え、質問にあがるだけのことは多分にあるんだろう。
それに、なにもない空間をきらりは見つめる。
そこへ記憶とイメージとが映し出されているんだろう、瞳はじっとして動かない。
生理的に時々と上下する睫毛もあまり震えず、窓からさし込む陽の光を静かに吸っている。
睫毛が真白く縁取られて、蓄光しているのかと思えば俄かに上下し、放電するように光がぱちぱちとはじけた。
「みどころ」「みどころかあ」と言葉の音を一つ一つ転がした声が、「ううん」と不意に旋回する。
いっぱい。いっぱいかなあ。でも見所っていうか。
くるくると螺旋を描きながら下降してゆくそれを、8割の当たりをつけて捉まえる。

「見てほしい?」そう、それ!と急上昇した声がトラバーチン模様の天井へまっしぐら。
真夜中の空色した幕をさげて、お星さまをうつすの。
どんな星? あか。あお。きいろ。と名前をつらねる音は、まるでひとつひとつ、指でなぞりながら、教えるように放られて。
あたまの中の色をそれとなしに浮かべながら、ひとつひとつ同じように、喉は震わさずになぞる。
くるくると回りながら跳ねながら、次々に出てくる言葉たち。
「たのしそうだね」とひねりない感想に、きらりはあげつらねた星の色を目の中で揺らしながら言う。

 

「もっちろん、楽しいよぉ。杏ちゃんは?」

ありがとうございました、と深々と下げられた黒い頭に、幾筋かの白い線を見つける。
ただでさえ平均身長が人より低いこともあって、プロデューサーの頭のてっぺんなんて数えられるくらいしか見たことがないけれど。
それでも記憶の中のもうだいぶぼやけた映像でのプロデューサーの頭は、
たぶん真っ黒いばっかりだったはずだ。
次はコーラよろしく、とぺらぺらと手を振ると、これなんですが、と。
どこに持っていたのかビニール袋がひとつ。
中をのぞき込んでみると、銀色のゼリー飲料、ジュレになった野菜とくだもの果汁が入った緑黄色がいくつか。パックされたカロリーと栄養素。
数百円の供給物に対して、受け取っていただけませんか、という声の中身には随分と質量が込められていた。

 

事故があったみたいで、と告げるタクシーの運転手さんにここまでの料金を支払い歩道へ出れば、
まずこもった湿度がしつこく顔を突き出してくる。
辟易としながらちらりとつい先ほどまで乗っていた車の窓を見ると、
こちらと変わらないぐらい辟易とした運転手がネクタイをぐいぐいと緩めていた。
帰宅ラッシュの稼ぎ時の中、恐らく向こう一時間は身動きがとれない。

水道管が破裂しちゃったんだって。けが人でなくてよかったね。

と通りすがりの誰かが言ったのが聞こえた。窓を隔てクーラーとエンジン音に包まれた彼には届かない。
不規則に鳴るクラクションとまばらな通行人をよけて行く、徒歩15分の道。
がさがさと白いビニール袋と薄茶色の紙袋をぶつからないように足を交互に出すのは、
テープレコーダーを押す指よりほんの少し重労働だ。
大通りの先でちかちかと警戒を促すようにランプが明滅し、ざわざわと喧噪が大きくなる。
人だかりで道路の上に形成された山は到底崩れていきそうになく、トンネル開通の予定もない。
ショートカットも含めて裏通りに入った。5分もしない内に喧噪は建物に遮られ、聞こえなくなっていった。
人もまばらな住宅街。どこかの開け放した窓からは明日の天気予報と、
庭先では暗くなってもうシルエットしか分からない植物に水をやる音が聞こえてくる。
ほとんど体に任せて歩いていけば、やがてそれも聞こえなくなってあたりは静かになっていく。
道行きには、類似したコンクリのブロックを積み上げた塀が、頭の上に続いては途切れ、続いては途切れる。
センサーに反応した防犯灯に照らされて、十字路の手前で足が止まった。
誰もいない道で、止まった足に歩きたくないと靴を放り投げたらひっくり返って十字路の真ん中に落ちた。
靴の天気予報によれば雨。どこの天気予報なのかと思ったそこへ滑るように走る灰色の車が下敷きにする。
暗がりの中で褪せた黄色がひしゃげた。アスファルトと同化するのは難しかったのかくねり浮いている。
靴に戻すにも、タイヤ痕の斬新なデザインと、露わになった磨り減った踵部分の毛羽立ちが邪魔をした。
ボロボロではあったからそのままにして、残った靴も併せて放置した。裸足でアスファルトを歩く。
日の温度がいまだこもっていた。
アスファルトの直径3mmの細かな模様のかたちが、そのまま足のひらに一秒づつきざまれていく。
さんかく。ばつ。まる。しかく。さんかく。ばつ。まる。しかく。
きらりはいま金星にいる。金星にいる。この星によく似た姉妹惑星。真円の公転を描きながら。

きっと、抱きしめたいのとうたっている。今、この時も。

 

聞き慣れた音を立てながら、ドアを開けてそれから閉めた。
蝶番が嫌な金属音を立てたような気がしたが、無視をする。
廊下の端に紙袋とビニール袋とうさぎを並べてから、
電球の切れた玄関先の暗がりの中青くなったクリームホワイトのシンプルなラグマットにひざをつく。
そのまま両手をフローリングにつけて浴室まで、四つ足で歩いていく。
換気扇を回しっぱなしの浴室で、シャワーのコックをひねろうとしてこのまま体もすべて洗ってしまおうかと考えて、やめる。
大人しく足だけ洗って廊下に戻り、並べたものを並べた順に持つ。
それから紙袋から出した包みは冷蔵庫にしまい、
ビニール袋から出した銀色のゼリー飲料の蓋を開けて口にくわえて歯で嚙んだ。
顎には重いので、軽くしようと、じゅ、とすすると、体が素直にだえきを出して飲み込んでいく。
うさぎを部屋に投げて、ビニール袋を机の上に置き、
やっと空いた手でゼリー飲料のプラスチックの袋に手を添える。
口元でぷらぷらさせておいたら、お行儀が悪いときっと言われただろうから。
そうして、今朝すぱりと着信音で切られたやわな小舟の残骸、もといビニール袋につまったゴミを回収して、
45Lのゴミ袋一つにみんなまとめてしまう。
ちょうど飲み終わったゼリー飲料もしばった袋の口からねじ込んで、玄関まで袋を携えて戻る。
ラグマットに足を乗せた所で思い出す。いよいよ駄目になった黄色のクロックス。
玄関先に出しっ放しの一足のスニーカーは紐靴で、めんどくさい。
視線をずらす。
もう一足、出しっ放しの、一回りも、もしかしたら二回りも大きい水色のクロックスに足をつっこむ。
誰もいない廊下を、ぺったんぺったん。
夜8時の、時々ちかちかと照明が消えたり点いたりする廊下を歩いていき、
階下へ下がって共用ケージの中にゴミ袋をいれる。
玄関に戻って、もう一度ラグマットにひざをつき、両手をフローリングにつけて浴室まで歩いていく。
薄い灰色の砂埃にまみれた両足と一緒に、今度こそ体ぜんぶを洗うために。
シャワーからあがった濡れた髪にタオルをかぶせる。
野菜果汁のジュレを飲みながらタオルを適当に往復させるとはちみつの匂いがした。
ベッドの端にずるずると背を預けながら、スマホの液晶画面に指を滑らせて、
画面の中のカートに適当に必要そうなものをいれていく。
今日完璧に駄目にした黄色のクロックス。切れそうなクマの容器に入った日焼け止め。
切れたはちみつのコンディショナー。45Lのゴミ袋。無くなりかけのティッシュ。
ほつれてきたタオルの代わり。詰め替えの洗濯用洗剤。そして最後にカラフルな飴たち。
支払いはカード。みんな届くのは明日。
そして指1本ですべて済ませられるほど便利な機械の画面の中だけ、機内モードになった。

 


-このツアーで、衣装デザインもされたとか。どんな衣装ですか?

 

第四の質問。に、きらりは口元を指先でおさえる。
くつくつことこと。あったかいシチューができたように肩が揺れてるのを、きらりは気づいているだろうか。
「あんまりね、くわしくは言えないんだけど」と前置いて、それでもあふれてくるのを、
そのまま素直にこぼしてくれる。
イメージしたのは、これから行く星々のこと。
でもまだ知らないことも多いから、いつものデコレーションの最後の仕上げは、
その星を見てからやるつもりらしい。
それで間に合うの?とたずねたら、すいーっと両目が泳ぐ。きらり?と声を投げてつかまえる。
そろりと合った瞳の下では、くちびるがむにゅむにゅと動いている。
無理はしないと、ついこの間プロデューサーと約束したばかりのくちびるだったはずなのに。
一つ息をした。杏ちゃん?と不思議そうなきらりの声。
なんでもないよ、と言う前に、ぷつっと無音が途切れた。

夜明け前の空と夕焼けの空は似ていて、時々今見ている空がどちらなのかが分からなくなる。

 

空に瞬く星の下を千切れながら流れていく雲。
今、目の前で見ている空は手の中できゅるきゅると鳴くテープレコーダーと同じように、
回転を逆にして、また再生しているだけのようだった。
『とれてる?』というきらりの声にうなずく。『なにからお話しよう?』というといかけには、
曖昧に笑って好きにしてよと腕を広げた。こんな風に。
白いブラウスを着ていたから、光をやけに反射すると思いながら。でも、今目の前の腕は肌が見えている。
それはそうだ。今着ているのはもうずいぶんくたびれたTシャツ。そもそもこんな暗がりの中でもない。
初夏の昼間。太陽が最も気温を上げる時間。窓ガラス越しに揺れる緑の葉も見た。
今の目の前には、星とその下を千切れながら流れていく雲だ。
まばたきを場当たりにしながら動かずにいると雲を縁取る光の量が増していく。
今見ている空は、どうやら夜明けのようだった。
さし込んできた光を、横に放っていた液晶画面が反射して目をさしてくる。
触れて機内モードを解除すると、受信を待ち構えていた通知とメッセージが次々と表示されていく。
おめでとう。おめでとう。おめでとう杏ちゃん。おめでとう。おめでとう。
いまだ残暑の濃い日付。9月2日。きらりがこの星にいない、2回目の誕生日を迎えていた。

「-志希ちゃんたっきゅーびん、つかう?」

眠気をたっぷりと含んだ声が、下から上に、綺麗な放物線を描きながら放られる。
それは事務所のソファから、机ともう一つのソファを悠々と飛び越えて、見事に抱えた段ボールの中に着地した。
海外の珍しい飴の派手なパッケージと、透明な袋に包まれてリボンでラッピングされた入浴剤、マグカップ、
お皿、スプーン、タオルケット、ラグマットの幾多の障害物の隙間をぬって。
審査員でもいたなら揃って10.0をつけただろう。志希は顔にかかった長い前髪にふうっと息をかけた。
見た目だけ重そうな瞼の下には、藍色の目が既に起きている。
段ボールを抱え直したからか、眩しそうに志希の目がたわむ。
祝福の彩りをつけたプレゼント達。仕事へ出る前、事務所の皆に囲まれた杏を見た時も、今みたいな目をしていた。
その申し出だけ受け取って、かぶりを振る。
ここ最近大あくびを繰り返し、数時間前もフレデリカにちゃんと寝てるの、

と見た目だけかわいらしく追求されながらふらふらと揺れていたくらいだ。
志希の言うたっきゅーびんに出ている間に、フレデリカが戻ってきたら随分と心配をさせるだろう。
志希は、ふうむ、と唇を尖らせて、しゅ、と歯の隙間から息を出す。
たわんだ目をつり糸のように細くしてから、なら、とでも言うように右と左に体を傾げながら立ち上がり、
段ボールの底に手を差し入れる。
ぴとりとこちらの手に触れた志希の指は冷えていて、一瞬縮こまった隙に段ボールは高く抱え上げられた。

 

「結構おもいね」

 

感想を述べてから、エレベーターまで、という志希の提案は、思いの外神経が行き届いていた。
21時過ぎの廊下を歩くと、気まぐれな飛び石の間隔で、中身までは判然としない話声がひそひそと響く。
途切れに響く音は、切れかけた電球のようだった。点いたり。消したり。
扉の向こうで、忙しなく電球を点いたり消したりをくり返す重たげな粘土の手。
不意に赤い爪先がくわんと上下する。段ボールを抱え直した志希の爪。赤いネイル。
長方形の光沢が白く光ったのと一緒に、志希のたわんだ目と目が合う。
返されたプレゼントが詰まった段ボールを抱える間に、
エレベーターの階数を示すライトがオレンジ色に光った。
チン、と到着を告げるベルが鳴って、滑るようにして開いたエレベーターの扉を志希は左手で押さえ、
右手でとんと背中を押してくる。
エレベーターの中で振り返ると志希は唇を曲げて、右目だけ器用にゆがませた。
表情の種類で言えば、笑い、なのだろうとは思う。
忘れ物、と志希が段ボール箱の中に小さな包みをひとつ投げ入れた。
隠さずに訝しげな視線を投げると、プレゼント、と返事。

 

「忘れた、って言ってなかったっけ」
「ちゃーんと持ってきてたってこと、忘れてたんだよ。だから忘れ物」

 

しゅろしゅろと、エレベーターのこもった空気と冷えた廊下の温度で音が鳴る。
細くした口の端から、志希の歯がちりりと燐のように光った。
「いつかよろしく、」と挨拶も半ばに、4cm隙間の向こうで白い指が揺れる。
開いた口から声が出る前にエレベーターの扉は閉まる。程なくして階の数字は下がっていった。

 

かちん。と手の中のテープレコーダーが再生のスイッチを押し上げる。

 

巻き戻しのスイッチを押すと、きゅるるるるる、とテープが逆回転していく。
その間にも、宇宙の裾はゆらぎなら広がり続けている。きらきらと星をちりばめながら。
そんなに広がってどうするんだろうなぁ、と思う。
人はうさぎ小屋みたいな部屋の掃除だって、一苦労なのに。
半透明な45lの袋。段ボールの底に緩衝材も兼ねて敷かれていたぶ厚い袋の端を持ち上げて、
爪で分度器の形をした切り取り線を破る。湿度85%の室内で湿気と脂を含む指は容易に袋を取り出すことに成功した。
机の上の使い捨ての紙コップ。紙の皿。プラスチックのフォーク。スプーン。
ぐしゃぐしゃの菓子パンのビニル袋。目についたものはすべてゴミ袋に放っていく。
よれたTシャツ。背中辺りが薄くなって向こう側が透けて見えそうなキャミソール。
とっくに収録が終わった台本。きっともう歌わないCM曲の歌詞カード。あちこちほつれたタオルケット。
数週間前にTVで流れた双葉杏の自撮りの背景は、そうやって全部ゴミ袋の中にまとめられていく。
アイドルの自堕落な生活を笑っていた誰かさん達は、もうそんな画像なんて覚えてはいないだろうけど。
アルコールを含んだ除菌シートで机を拭いて、段ボールから一つづつ取り出して並べていく。
海外の珍しい飴の派手なパッケージ、透明な袋に包まれてリボンでラッピングされた入浴剤、マグカップ、
お皿、スプーン、タオルケット、ラグマット。
クリーニングからつい先日戻ってきたにも関わらず、耳の綿がへたったうさぎを真ん中に置いて調整する。
スマートフォンのカメラで一枚。『19才』とだけ書いてインターネットの海に投げた。
電源ボタンを押して机に置いて、段ボールを崩すと、ぽとりと何かが落ちた。志希からの小さな包み。
撮り忘れた、と思ったが、当の本人は別段今日アップした画像の中にそれが写っていてもいなくても、気にするでもないだろう。

たぶんだけれど。そんなことを言いはじめたらきりがない。
何よりこれをくれたみんなは、そんなの気にしていないんだろう。きっと。
玄関の電気を点けて、うす汚れたラグマットを袋に詰め込んで口を縛り、もらったばかりのラグマットを敷く。

交換されたばかりの電球に照らされて目にも眩しい。
玄関に一足だけ。出しっ放しの黄色いクロックスを履いて、ゴミ袋と畳んだ段ボールを抱えて共用のケージに放り込みにいく。
戻ってから何ヶ月かぶりに浴槽にお湯を張った。
それから机に置いておいたリボンに装飾された透明な袋を一つ持っていく。
中には、おもちゃみたいな色合いの大きな丸いバスボム。鮮やかなブルー。所々に黄色とピンク。
一応地球イメージなんだろう。贈り主は、お風呂の中が宇宙になりますよ、と言っていた。
親指で袋越しに触れると、さり、と地球が小さくくずれ、細かな青い砂が袋の中に降る。
湯気の中袋をあけて、浴槽の中に崩れた地球を落とした。
みるみる宇宙色になったお風呂は、とにかく甘い香りがした。
浴室から部屋へ戻って、ベッドに倒れ込めば、ほつれも毛羽立ちもないタオルケットが頬を撫でる。
隙間からたぐって、巻き戻しが終わったテープレコーダーのスイッチを押す。

 

『とおうれてる?なあにから、おはなししよおう』

 

といかけには、眉をよせて、シーツを掴んだ。黙りこくった杏にかまわず、声はつづいていく。

『たあいようけいのツアーだあかあら。
 おつきさあまについたら、ううさぎさあんといいっしょにダンスできたらいいよにいい』

 

月の海でうさぎと踊る。ステージの後ろには地球が浮かぶそこで。
それから真円の公転を描く金星へ、太陽に一番近い水星へ、休むことなく四季のある火星へ。
太陽系のどこへいっても、きっときらりは歌っている。今、この時も。変わらず。ずうっと、ずっと。

 

『あんずちゃんは?』

 

そこで、途切れた。

タオルケットの波間から、きゅら、きゅら、と規則的な音が聞こえてくる。
シーツとタオルケットの隙間へ指先を泳がす。布ずれが、どくどくと血液を送る心臓の隙間を刺してくる。
こつ、と爪が硬い蝉の背を打つ。腹を爪先で撫でると、砂を割る乾いた音がした。
蝉の腹の、黒い突起を押す。かしゃ、と開いた背の中から、二つの黒い丸。
片方は半径3㎝の丸。片方は1㎝にも満たず、歪に縮れた線を揺らしている。

 

「-つづけて、るよ」

 

今、この時も。

 

30kgの錨をひきずるように動かしながら。
歌も。ダンスも。レッスンも。
汗をかくのはきらいだ。つかれるのもいやだ。でもまだ、続けてる。
スマートフォンの中の写真も、動画も、スケジュール帳も。
更新されない思い出を抱えて。

 

もこもこの白い雲をぷくぷく地面に吹きながら空へ昇ってくロケット。

 

お砂糖の細かいつぶをきらきらと青い空に散らしながら、大気圏の向こう側へ。
震える振動をリズムに変えて。液体水素と酸素が燃える爆発音を曲に変えて。
指とかかとでリズムをとって、きっと歌いながら、この星を旅立った諸星きらりに。
歌のこだまよりはやく。ステージの光よりはやく。
いびつでもちいさくても。
それでも、きらりの目尻をさげて笑わせた、双葉杏のきらめきが届くように。
まだつづけている。

ここに、もうきらりはいないのに。

ぱきっ--。と砕けた音がした。
次いで、ふわんと、わたあめの匂いがした。
ざらめを熱で溶かし、くるくると回りながら。夏の入道雲みたいにみるみるふくれていくわたあめ。
真っ白で、やわらかくて、ひとくち食べたら嘘みたいにやさしくとけて。
あとは舌の上に、ただただ、甘い味だけが残る、わたあめ。

 

「あーんずちゃん」

 

声がした。

 

懐かしさが一番先にぽんと胸に浮かび、懐かしいとなにより先に浮かんだことが、わあと叫びたくなるくらい楕円の形をした寂しいを呼ぶ。
呼ばれた寂しさは黙って叫んだ勢いで懐かしさをけとばし、けとばされた懐かしさは天井を軽々飛び越えた。
そして、ずっとどこかに行っていて、もうなくしちゃったと思っていた、
丸くって大きくってやわこくってあったかい、驚きと、よろこびといっしょに、降ってきた。
ざあざあざあざあ。雨みたいに。音がする。音。
ああ違う。これは声だ。
色とりどりの、まる、さんかく、しかく、ばつ、ひしがた?ごかっけい?色んな形の模様が、
何も見えない夜の海面からわき上がって、それぞれの思うままに揺れ動いている。
呆けたまま顔を動かすと、バケツで塗ったような真っ黒の背景にしんしんと粉砂糖が降っている。
その中央には、ショコララテを金のスプーンでくるくるかき混ぜたしましま模様の大きな丸。
ゆらゆら曲に合わせて回りながら、のんびり揺れている。
天井にはスペースデブリでつくったモビールの星々。
たまごのような色した月の光を集めたスポットライトを、丸くぴかぴか反射させている。
止め処なく動くその光に導かれるように目線を落としていくと、
照らされてクリームホワイトの色になった、ネイルした手がぽつんと浮かんでいた。
親指にはくるくる渦巻きのキャンディー。人差し指にはロリポップ。中指には黄色と水色のリボン。
薬指にはもも色のうさぎ。小指にはアーモンド色のくま。
息する前に、スポットライトが集まる。そこはステージの中央。
ライトに照らされたその人は。

 

諸星きらりというアイドルは。

 

オレンジブラウンの髪を、重力を無視したツインテールにふわりとまとめ。
この星の色を溶かし込んだようなオレンジレッドを唇の上にのせている。
甘く砕いたガラス片のような星を瞳の中に散りばめて。
地球から星を巡る旅に出る、あの頃のまま笑っていた。
最初からそう動くことを、丁寧に編まれたように差し出された手に、震えながら手を重ねた。
肌の感触があった。人の温度があった。その下には血がながれていると思った。息があると、思った。
勝手にあふれた体の反応で、目の前に丸い光が無数にふえてく。
それを見たきらりはふにゃりと瞼をゆらして、左手のマイクを唇に近づけて、歌う。

 

はっぴばーすでーとぅーゆー。
はっぴばーすでーとぅーゆー。
はっぴばーすでーでぃーあ、あーんずちゃーん。
はっぴばーすでー、とぅーゆー。

 

わっとあがる拍手と歓声のような何かに、きらりは満足そうに肩を揺らした。

 

ちょっとまってよきらり。

 

杏も、きらりに、という声はマイクなんて持ってないからあっけなく歓声にかき消される。
だからせめて衣装の裾をひっぱろうとした所で、
ぺったりと墨を流し込んだような影が後から現れて1本のマイクを渡してくる。
殆ど押しつけられるようにして受け取ると、ぐるりと取り囲むように音楽が流れ出す。
スポットライトの色はたまごの色から目まぐるしく変わり始めてちかちかする。
とまどったままきらりを見上げた。
きらり。きらり。杏この曲知らないよ。
24色絵の具のチューブを流し込んだような色の洪水の中で、きらりは言う。
ずーっとがんばってる杏ちゃんならだいじょうぶ、と根拠ない言葉を。歌えるよ、と確証のない言葉を。
知ってるよと唇をあげて、重ねた手を包みながら、きらりは呼びかける。

 

今夜は特別。杏ちゃんと一緒に歌います。それでは聞いてください。

 

ぱんっとポップコーンが弾けたような音のあとに、ステージがひっくり返って足が少し宙に浮く。
とた、と着地してふらついた、いつのまにか履いていたストロベリー色のエナメルの靴のつま先を見てきらりはぱちりと手を叩く。

その調子、なんて言うみたいに。
まって、と言う前に、きらりが叫んだ曲名は流れた音と歓声とでごちゃまぜになって聞き取れない形になって、一瞬で消えた。
ボタン電池で動く魔法のステッキみたいな電子音。
わななくような機械音の波間からこんぺいとうの形した音の粒が飛び跳ねる。
その間から現れるのは、いくつものいくつものおもちゃ達。
セルロイドのピアニカ。たたくとこが五つしかない木琴。その上に乗ってどこまでもいけるうさぎの列車。
チョコとストロベリー、ターコイズ色したドーナツ型のアイシングクッキーの輪投げ。
七色のスリンキーがあちこちでぱたぱたとたたらを踏んで、木でできたパズルのどうぶつ達が跳ねる。
おもちゃ箱をひっくり返したステージを取りまく音の包囲網に、
気づけばよれたTシャツとぼさぼさの髪はどこかへ行ってしまう。
代わりに驚くほどの装飾と笑っちゃうくらいデコられた衣装と髪。
いつのまにやられたんだか、ベイビーピンクのネイルまで。そこに、見慣れた形の影が落ちて、顔をあげる。
チョコレートブラウニーの甘さに地平線へ沈む太陽の色を、レジンで閉じ込めたような瞳と目があった。
つやつやした光を瞼でおおって、きらりが笑うから。笑う。
ライトに照らされてキャロットオレンジ色になった唇をつぼみの形にしてきらりが息を吸うから。

 

杏も息を吸った。

 

その曲は、確かにいつか二人で歌うはずの曲だった。

歌い出しは叫びのような声がでた。次にそれはことばになって、メロディラインにのってフレーズになる。
収縮をくり返す心臓の脈拍のあいだを埋めつくしてくきらりの歌声に手足がのせられて、
おぼつかない足が勝手にステップを踏む。
視線の引力にひっぱられるようにしてとったアイコンタクトに、腕の振りがついてく。
色んな形の模様はいつのまにか光の海になって下からステージを照らして、ネイルされた爪の先がアーチを描いて透けてるのが見えた。
スポットライトと一緒に半ターンすると、シロップに縁取られたきらりがいた。
同時に思った偶然のタイミングで、杏にとっては高いとこで、きらりにとっては低いとこでハイタッチして、
丁度つりあった力でぱちんとはじけた手と一緒に歓声があがった。
まぐれのいたずらが成功したから、こどものように肩をよせあってくすぐったくゆすりあった。
空想のような光景ばかりが、ただ目の前に広がって。
もうとっくに枯れ果てたとばかり思っていた透明な粒が、世界を濡らしながらあふれた。
それでも唇のはじっこをめいっぱいあげて口を大きくあける。
歯だって。舌だって。その奥だって見えるくらいに。

 

諸星きらりと双葉杏は。私達は。

どうしたって今、アイドルだから。

 

たった数分の歌とダンスに昂揚する体の奥と、歌い終わった安堵で冷静になった頭で、
歓声と拍手が収束していき、しいんと静まりかえったステージを見下ろす。
胃の上から吐いたまるい息が下へ落ち、着地したとこから色とりどりの模様が揺れはじめる。
その中で、きらりは空を見上げていた。杏は、それを見下ろしていて、遠くなるきらりの、星の瞳に気づく。
喉の奥がしゃくりをあげる。体から息を吐ききったらこの浮力は失われることを期待してその通りにしようとするのに。

不規則にしゃくりをあげる喉の奥が言うことをきかない。
不格好な言葉にもなってくれない声は、いつのまにかどこかへ行ってしまったマイクにはのらなくて。
聞こえているのかいないのか、きらりは大きな手をめいっぱいに振る。
口を大きく大きく。お腹から声を出す。遠くなって豆粒のように小さくなる杏に向かって。

 

またね。またね杏ちゃん。またいつか。

 

やがてステージからカラフルな丸い風船がいくつもいくつも現れて、杏に向かって降りそそぐ。
いくつもの風船たちに代わるがわる体のあちこちを柔らかくなでられながら、イントロが流れ始める。
流星の電子音。この宇宙の間を流れ続ける決して落ちないコメット。
丸くて甘くて可愛い星々に、きらりは歌う。

 

すべてまるごと、包む旅路へ。

そろりと瞼を開けると、
遮光カーテンの下の端でゆらゆらと光がフローリングを赤く焼いている。
夕方。太陽が地平線の向こうに落っこちていく時間だった。
体を起こすと、ぬるいエアコンの風が頬にあたってかぴかぴとするので、手でぬぐおうとして、やめた。
こするとよくない。
視線を落とすと蝉の体からプレゼントのリボンをほどいたように、
くしゃくしゃになった磁気テープがあふれている。
ふたつの手でテープの山を包みながらなでると、こどもの体温を中で跳ね返しながら、
わしゃわしゃと音がしてなだらかにくずれてゆく。
抱えながらベッドから抜け出ると、志希からもらった小さな包みが机から落ちているのを見つけた。
机の上にくずれたテープをよこたえてから、真ん中の膨らみがなくなっているのを変に思って拾う。
かすかに甘い、わたあめの匂いが袋の中でへたっていた。
耳元に近づけて振ると、かしゃかしゃと破片がこすれあう。役目を終えた音がした。
包みを机の上に置いて、洗面所に行って顔を洗う。
痩せたタオルで拭ってから、遮光カーテンの隙間に指をいれて、ベランダに出る。
こもった湿度の空気の洗礼に、はばからず素直に顔をしかめて、あー、と濁った声を出して手すりに脱力した。まだまだ残暑は杏にきびしい。

ビルの合間に沈んでいく太陽を見る。
刻一刻と落ちていって、空をラベンダーに染め上げて、ここからは見えなくなってしまう。
それはただ、見えなくなるだけだ。ただ、光に照らされることがなくなるだけだ。
消えてしまうことはない。なくなる訳じゃない。それは分かってる。
たらりと寝返りをうって手すりを枕にして空を仰いだ。
手すりは日中の太陽の熱をたっぷり吸っていてまだあつかった。
じわじわと汗が出てくるのを感じながら手をのばす。

 

マンションの屋上の、ちぎれてくひつじ雲の、成層圏の、そのまた向こう。
その内に、腕が疲れたのでぱたりとおろす。
30kgの錨は、杏には重すぎる。捨ててしまうのも。持って行くのも。

でも錨は必要だ。

歌と。ダンスと。レッスンと。
ここでぜんぶを続けるためには。

きらきらが届くように。星の海の向こうで歌うきみに、それが届くように。

覚えてるかぎりの歌を口ずさむ。「ら」だけで。やっぱり知らない曲だ。
だって歌ったのに歌詞も出てこない。
急に無茶ぶりしてくれちゃって。
覚えてないよ。どんなダンスしたっけ。
できればこっちでやりたかったなあ。金星や火星を飛び越して木星公演なんて遠すぎる。
ぺたんと瞼を閉じると、真っ黒の世界にきらめきが浮かぶ。
月の光のスポットライト。スペースデブリのモビール。

その中で歌う。

 

「ねえ、きらり」

 

-ツアーが決まって、どうですか。

 

『ゆめみたい』

 

それだけが、耳の奥で聞こえた。

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